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怒りの葡萄:社会の不条理と団結

1939年、ジョン・スタインベックが発表した怒りの葡萄。そこに描かれていたのは、現代にさえ通じうる沸々とした社会への怒りでした。持つ者と持たざる者、分断、悲劇の中には私達にも覚えのある光景が描かれているでしょう。今だからこそこの名著は必読の一冊です。

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〈あらすじ〉

本作はアメリカ中西部で小作農を営むジョード一家を中心に、貧困にあえぐ市井の人々を描き出した作品です。世界恐慌が吹きすさぶ中、連日の砂嵐で稼ぎが成り立たなくなった一家は、カリフォルニアで求人募集中という広告を頼りに、一家総出で大陸を横断する旅に出ます。しかし苦難の末たどり着いたカリフォルニアは、ジョード一家と同じ考えで集まった人々であふれかえり、労働力過剰に陥る最中でした。ジョード一家の状況とより俯瞰した目線で貧民を描く章が交互に挟まれることで、本作は一家の苦難のみにとどまらず、アメリカ社会への告発文とさえ読み取れる構成となりました。

 

〈怒りの果実が実る時〉

そんな怒りの葡萄は、聖書的な要素を含むことでより共感を得やすい物語となっていました。一家が先祖代々の土地を追われ豊穣を約束された地カリフォルニアへ旅する様は、旧約聖書の出エジプト記を借りたストーリーラインであることは既に多くが指摘していることでしょう。また、元説教師のジム・ケーシーは偶然か意図的か、イエス・キリストと同じイニシャルを持っています。このジム・ケーシーという存在こそ怒りの葡萄をジョード一家の物語に留めない白眉でしょう。ケーシーは、ジョード一家の故郷で多く洗礼を授けた説教師でしたが、自身が話す説教文句を信じることができずその役割を降りた人物です。旅の中で延々と思考したケーシーは、やがて1つの信念に辿り着きます。そしてカリフォルニアでは言い値で賃金が下がり続ける重労働に、ストライキを組織しました。しかしストライキの中心人物として危険視されていたケーシーは、雇われ警備員にツルハシで殴打され殺されてしまいます。説教師を辞めた男がイエスと同じく理不尽に声をあげ、イエスと同じく権力者に殺される。この皮肉こそが当時のアメリカ社会を表しているのです。そしてケーシーの思想は死後、主人公トム・ジョードへ受け継がれました。ケーシーよりもさらに大規模なストライキを起こそうと考えるトム。怒りという名の果実は房に実を宿らせ、熟しつつあるという象徴がケーシーなのです。

 

〈今だからこそ〉

世界恐慌時代のアメリカ社会を告発した怒りの葡萄ですが、現代人も共感するところは多いはず。本作には2種類の人間が登場します。即ち、持つ者と持たざる者。この分断こそが本作の表す告発なのです。しかしスタインベックは2種類の人間を、善悪や強弱のようにくっきりと区別して描いてはいません。どちら側に立つ人間も、反対の立場へ変わりうる危うさを秘めていました。ジョード一家が故郷を追われるきっかけはトラクターでしたが、この運転手も家族を養うため仕事を選んでいられないと友人の家を潰します。貧民キャンプに住む人々を「オーキー」と呼び差別する地元住民も、治安の悪化や失業を恐れての行動でした。そして持たざる者として描かれるトムも、道路を横断しようと必死にもがくか目を拾い上げて遊ぶ様に象徴されています。持つ者と持たざる者、システムに狂わされるその様は、姿を変えて現代を生きる我々と重なる場面が多いはず。団結を恐れストライキを徹底的に潰す富豪たち、仕事を求める貧困者へ角材で迎える住民たち、貧民キャンプで食べ物を分け与える貧民たち、水面下で団結し理不尽へ声をあげる労働者たち。私たちは時に自分の生活を守るため、未知の存在を必要以上におそれ、迫害してしまいます。しかし私達には理不尽な困難へ立ち向かえる団結があるはずです。本作は死産した母が今にも餓死しつつある老人へ母乳を与えて幕を閉じます。このラストシーンはスタインベックから読者への問いかけのように感じました。寒い時代だからこそ今でもその問いかけは生き続けています。苦しい時こそ、同じ苦しみを持つ人と肩を抱き合う。ケーシーが示し、トムが受け継ぎ、ラストではさらにその先を見せた怒りの葡萄。怒りは実を結び熟す機会を待つ。この時代にこそぴったりな名著です。

 

〈余談:映画の感想〉

怒りの葡萄は小説が刊行された翌年の1940年に映画化、監督がアカデミー賞を受賞する名画となりました。ここでは映画を鑑賞した所感を余談として置いていこうと思います。

 

映画版はスタインベックの意図した「社会への告発」という要素が縮小され、代わりにジョード一家の苦難の旅という側面が拡大していました。苦難を前にばらばらになる家族の絆、それをつなぎとめる母の覚悟。物語の大筋は再現しながらも、ジョード一家にふりかかる理不尽に立ち向かう様にフォーカスされていました。スタインベックの意図から外れた物語に変えられ、ラストシーンは映画オリジナルとなってしまいましたが、団結の物語であることに変わりはありません。自助と共助で生き抜く逞しさがより強く押し出され、小説版よりも娯楽色の強い作品ですが、映像として浮かび上がる苦しみが遠く離れた私たちの共感を誘います。一見すると「どんな理不尽も強い絆で乗り越えよう」というテーマが汲み取れてしまいますが、社会への怒りというメッセージは残されています。別物として見る向きも強い映画版ですが、小説の内容を忠実に再現した箇所も多く、より良い味わいを楽しめるでしょう。

『ドラゴンボールDAIMA』感想

ドラゴンボール超以来久しぶりのTVシリーズとなったドラゴンボールDAIMA。原作者鳥山明氏がストーリーの大部分を制作し、ファンの期待も大いに膨らんだことでしょう。私自身ドラゴンボールに魅了されたファンの1人。そこで今回は、ドラゴンボールDAIMAの初見の感想を記したいと思います。最終回のネタバレを含みますので、未見の方はここでブラウザバックいただくことを推奨します。
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〈大魔界〉

かつてダーブラが治めていた大魔界(暗黒魔界)の現王ゴマーが、地球のドラゴンボールを用いてZ戦士を子どもにしてしまうパートから本作らスタートしました。悟空らは元の姿に戻るため、そして連れ去られたデンデを救出するため、同じく大魔界からやってきたグロリオと共にゴマーを追います。一方大魔界では、恐るべき魔人ブウの破片から新たな魔人クウ、ドゥーが誕生。悟空らの新たな冒険は波乱と陰謀の予感がするスタートとなりました。

そんな本作の見どころは、やはり様々な情景が描かれた大魔界を横断する大冒険でしょう。第1〜第3魔界まで、悟空たちは大魔界のドラゴンボールを求めて旅を進めます。シーン毎に変わる大魔界の景色、ドラゴンボールを守護するタマガミとの戦闘。冒険ものとしてスタートし、バトルものとして大人気になったドラゴンボールらしい作品作りがされています。20話とそれまでのドラゴンボールに比べかなり短い作品ですが、バラエティに富んだ世界観をまた広げてくれたの間違いありません。

 

〈多様な世界で〉

そんなDAIMAで鳥山先生が描きたかったものは何なのでしょうか? 本作の舞台となった大魔界は、原作ではダーブラが治める世界として存在が触れられる程度でした。暗黒魔界という名前にダーブラの性格から恐ろしい世界を想像した方も少なくないでしょう。しかし実際は魔界にも多様な世界が存在し、多様な人々が描かれました。資源が制限され、物が少ないために王すら盗みを働く第3魔界、凶暴な生物が猛威を振るう第2魔界、大きな宮殿からコンビニまである繁華街のような賑わいを見せる第1魔界。そこで出会う人々もどこか俗世的で親しみを持った方も多いのではないでしょうか? ゲーム作品では宇宙規模の陰謀を企む敵が潜む世界として描かれた魔界ですが、DAIMAではあくまでもう1つの世界、いわば異世界の1つとして表されたのです。悟空たちはそんな異世界の文化や風習を否定しません。本作で「罪人」と扱われるゴマーとデゲスは、どちらも自分のためだけに他者の在り方を捻じ曲げ、或いは殺そうとしています。多様な世界と人間を肯定する流れは、未来トランクス編、宇宙サバイバル編を連想させ、ドラゴンボール超からの系譜を感じるでしょう。

 

〈あるべき姿〉

本作はそんな大魔界の政権交代がラストで描かれました。ゴマーに代わり魔人クウが大魔王となったのです。戦闘力よりも器用さや頭脳面、人懐っこいマスコット的な存在として描かれていたクウは、大魔王として就任した途端以外な才能を発揮します。出身や経歴を問わず有能な人物を次々と大臣に指名したのです。デゲス以外ほとんど側近を起用していなかったゴマーとの違いがたった数分で浮き彫りになります。多様な世界を包括する大魔界を治める王に必要な器が何なのかを魔人クウは端的に表しているのです。

ドラゴンボールは度々高次の存在が描かれます。神、界王、界王神などです。しかしそれら全てが敵の強大な戦闘力に驚かされ、またZ戦士の戦闘力に驚かされます。高次の存在が解決できない脅威にZ戦士らが戦闘力で解決してきたのです。「この地球に必要なのは神などではない。やつらを倒せるほどのスーパーパワーを手にしたオレなんだ!※」というピッコロのセリフがそれを端的に表しているでしょう。魔人ブウ編でも、界王神ら高次の存在はあくまでZ戦士らのサポートに徹します。本作でもそれは変わらず。大魔王となったゴマーの行動は、自らの地位を強固に安定するためのものでした。Z戦士を幼児化させ、魔のサードアイによる自身の強化を目論みます。この戦闘力至上主義ともとれる世界に一石を投じたのが魔人クウなのです。

魔人クウは期待されていたほどの戦闘力を有しておらず、産みの親でもあるアリンスに見限られそうになる程でした。しかしアリンスが望む戦闘力を持った魔人ドゥーの誕生に自らも喜んでおり、兄弟として接するようになります。また最終決戦にも戦闘力の低さを自覚しながら参戦しており、勝利に大きく貢献します。サードアイによる強化がなければ参戦する気も見せなかったゴマーとは大きな違いです。強大な力を背景に多様な世界を独裁するゴマー。足りない力は他者を頼り、多様な人々で世界を治めるクウ。DAIMAに登場した2人の王は、多様な世界の向き合い方で異なる姿勢を見せたのです。原作でも、戦闘力の高いものが高次の存在となることは暗に否定されていました。王の器とは戦闘力の高低ではないのです。それをより直接的に描写したのが本作ドラゴンボールDAIMAでしょう。鳥山先生がドラゴンボールへ最後に遺したものは、多様性に満ちた世界を肯定する姿勢ではないでしょうか。

 

 

 

ドラゴンボール其之三百五十六より引用。

『ウルトラマンR/B』感想

異色揃いのニュージェネレーションヒーローズの中でも、ひと際異彩を放っている作品の1つにR/Bが挙げられるでしょう。コミカル色の強い本作は、W主人公体制でスタートしました。そんなウルトラマンR/Bの感想をネタバレ有りで語りたいと思います。未見の方はご注意ください。
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〈大きすぎる力〉

本作の舞台は綾香市。地元産の大企業が市を発展させた、都市とも田舎とも言えない普通の町です。そんな綾香市に住む兄弟、カツミとイサミが突如光の巨人、ウルトラマンロッソとウルトラマンブルの力を授かった場面からスタートします。それまで怪獣は民間伝承でしか知らされておらず、当然防衛隊は存在しません。日常の延長を描いているのです。カツミもイサミも、当初は戦う意味や力の責任を分かっていませんでした。遊び感覚さえあったかもしれません。巨大化し超常的なパワーを持った2人の若者は、襲い来る怪獣を倒す力に正面から向き合っていなかったのです。

 

ウルトラマンらしさ〉

そんな2人が立ち向かう敵も主に2人いました。1人はオーブダーク。あのウルトラマンオーブに憧れ、ルーブジャイロを模倣した変身アイテムなどを開発、自らオーブに似た外見の巨人に変身します。オーブダークは誰よりもオーブを崇拝しており、誰よりもウルトラマンらしさを追求していました。しかしそれは表面的なもの。ウルトラマンは喋らない神秘性を帯びたものとし、必殺技は最後に放つなどどこかで聞いたお約束をロッソとブルに「指導」します。

そしてもう1人は、かつてウルトラマンと共に戦ってきた戦士、美剣サキです。誰よりもウルトラマンの背中を見続け、脅威と戦い続け、その最期を目の前で見届けていました。誰よりも尊敬するウルトラマンが自分の目の前で倒される経験は、美剣サキのその後へ強烈な影響を残します。最期までウルトラマンであり続けた戦士の背中を見た美剣は、だからこそカツミとイサミをウルトラマンではないと断じます。コミカル色の強い本作。特に序盤は、敢えて既存のウルトラマンらしくない雰囲気をまとっており、拒否感さえ覚えた方もいるかもしれません。そんな力の意味に対する自覚が足りない主役2人が挑んだのは、「ウルトラマンらしさ」の追求だったのです。

確かにカツミとイサミはウルトラマンらしくないかもしれません。表面的にも、また力の意味を完全に理解していないことも。何故戦うのか答えを出しているわけでもなく、ただ怪獣が来たからという理由で変身するほどです。では「ウルトラマンらしさ」とは何なのでしょうか?

 

〈不可能を可能に〉

強敵との戦いを繰り広げた2人は、ウルトラマンらしさを問われ続けます。強敵に敗れ、尚も奮起するカツミとイサミ。2人の出した結論は、自分はウルトラマンではないというものでした。自分は自分であり、ウルトラマンとしてではなくカツミとして、イサミとして戦うのだと。例え自分がウルトラマンではなかったとしても、家族の住むこの町を、そしてこの星を守るために戦う。それが2人の出した結論でした。迫りくる厄災から宇宙を守るため、かつて憧れた戦士たちの守った地球を滅ぼそうとする美剣にロッソとブルがぶつかるのも、ウルトラマンとしてではなく自分たちが決めた戦う理由に従うためです。しかし2人がウルトラマンでないのならば、この物語はいったい何なのでしょうか? ウルトラマンらしさを追求し、結果その答えを出さないままでいるわけにはいきません。この物語はウルトラマンの物語ですから。

本作終盤、厄災たるルーゴサイトとの戦いを決めた2人は母から衝撃の未来を告げられます。なんとこのまま戦えばルーゴサイトに2人は敗北、命を落とすというのです。母は予見してしまった未来を回避するため、あの手この手で2人の変身を阻止します。そこで2人は、自分たちはウルトラマンだから信じてほしいと頼むのです。安心させるための言葉ではありません。以降2人は自分たちをウルトラマンだと名乗るようになります。戦う理由は変わっていません。ならば2人の中で何が変わったのでしょうか? ルーゴサイトを止めるため、母と美剣はそれぞれ違う手立てを用意してました。母はルーゴサイトをクリスタルに封印し、異次元へ投下。異次元の門を閉じる事で2度とどの世界にも現れないようにすることでした。しかし美剣は、それでもルーゴサイトは帰ってくることを指摘。完全に葬り去るしかないと言います。そんな美剣の作戦は、地球のエネルギーを一点に集め大爆発を起こし、地球諸共ルーゴサイトを木っ端微塵にすることです。母の作戦はその場のしのぎの延命でしかなく、美剣の作戦は地球上の命を無視したもの。これ以外道はないとする両者に、ウルトラマンとしてロッソとブルが立ち向かいます。2人は無理難題を実現するため、不可能を可能にする力を指してウルトラマンと名乗ったのです。

かつて初代ウルトラマンは、「ウルトラマンの定義」を若輩メビウスに諭していました。我々ウルトラマンは神ではないとし、その上で「最後まで諦めず、不可能を可能にする。それがウルトラマンだ」と。カツミとイサミが出した結論。そして最も重要な「ウルトラマンらしさ」とは、既に初代ウルトラマンが答えを導き出していたのです。

『ウルトラマンデッカー 最終章 旅立ちの彼方へ……』感想

ウルトラマンデッカー最終章と銘打たれた本作。新たなウルトラマンの姿も描かれ、タイトルやポスターだけではどのような内容か類推することが難しいでしょう。今回はそんな劇場版ウルトラマンデッカーの感想をネタバレ有りで語っていきたいと思います。未見の方はご注意ください。
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〈ディナス〉

本作最大の見どころと言えるのは、やはり新たなウルトラマン、ディナスの登場でしょう。TV本編最終回で変身能力を失ったカナタに代わり、ディナスが本作の戦闘の多くを手掛けます。ディナスはラヴィー星からやってきた、地球人と同じ見た目の宇宙人です。戦いを好まず動物とも会話が可能で、心を通わせた怪獣の力をカード化し使用できるよう。故郷のラヴィー星は宇宙人の侵略を受け壊滅的な被害を受け、ウルトラマンダイナによって救われた過去を持ちます。そしてディナスはダイナから光を受け継ぎ、ウルトラマンとなったのです。誰かにとって大切な守る人を守るためにウルトラマンとなったディナス。戦闘経験は浅いものの、既にウルトラマンとしての精神は完成しているようです。

 

〈彼方遠く〉

TV本編から1年、ガッツセレクトの面々はキャリアアップや新組織へ栄転など、思い思いに未来を実現していました。そんな中1人行く先を決められないのがカナタです。カナタのそれまでの実績があれば、実家の煎餅屋を継ぐことも、ガッツセレクトとして戦い続けることも、はたまた別の道を選ぶことも可能でしょう。今を全力で生きることにしたカナタ。その先の目標を決めるのはまだ難しいのでしょう。

ディナスが現れたのは正にそんな時でした。ディナスはプロフェッサーギベロスなる人物の侵略計画を阻止するために地球へやって来ていたのです。スマートな侵略を目標に掲げるプロフェッサーギベロスの計画は既に始まっていました。ガッツセレクトと協力してプロフェッサーギベロスに挑むディナス。誰かにとって大切な人を守るために戦うというディナスの思いは、ガッツセレクト達にも強く伝わっていました。やがてディナスの思いは光となり、ガッツセレクト全員の光と合わさり、彼方遠くまで輝く光となります。ウルトラマンデッカーが蘇るのです。がむしゃらでも突き進むことを選んだカナタにも目標が出来た瞬間でした。

誰かにとって大切な人を守りたい。本作終盤にてカナタが宇宙開拓船の船長として、遥か彼方の宇宙へ旅立つのもまた同じ理由でしょう。カナタが選んだ未来への道は、ウルトラマンとしてだけでなく人間としての選択でもありました。ウルトラマンダイナもまた、普通の人間だった。その事実がディナスを、そしてカナタの決断を強くさせたのでしょう。伸ばせる限り手を伸ばし、いつまでもどこまでも誰かの「君」を守りたい。ダイナの光でウルトラマンとなったディナスの思いを、カナタもまた受け継いだのです。

 

〈ダイナの精神〉

本作ではカナタの未来を描くだけでなく、TV本編では回収しきれなかったある疑問にもアンサーを出しています。地球人は宇宙へ進出してもいいのか? 

スフィアがいなくなったことで再び侵略者の襲撃が始まった地球。多くの異星人で構成されたプロフェッサーギベロスの組織を見ると、TV本編のアガムスの言葉が思い起こされます。地球人が遠因で生涯のパートナーを失ったアガムス。多くの侵略者を目の当たりにすると地球人だって侵略者になり得るのでは? と疑問を感じても不思議ではありません。それでも本編終盤では、宇宙開拓部隊の宇宙船は数多く編成され彼方まで旅立っていました。

思い出したいのは、カナタが旅立った理由です。誰かにとって大切な人を守るために、全力で手を伸ばすカナタ。この姿勢や思いはガッツセレクトにも受け継がれています。形は違えどガッツセレクトの全員が思い思いに叶えようとしているのです。誰かを守るために。そして、無限の可能性を狭めないために。万が一のリスクもあるでしょう。しかしカナタ達の精神性、思いが受け継がれる限り地球人が侵略者になるとは思えません。地球人が侵略者になることを危惧した上で、何故最後は宇宙開拓へ乗り出たのか? 答えは明白でしょう。ガッツセレクトの全員がダイナの精神を受け継いだのです。

『ウルトラマンデッカー』感想

ウルトラマンデッカーは、前作ウルトラマントリガーの続編としてスタートしました。光と闇の戦いの行方を描いた前作。本作はどんな物語が待っているのでしょうか? 今回もネタバレ有りで語りたいと思います。未見の方はご注意ください。
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〈窮屈な空〉

前作ウルトラマントリガーの直接の続編である本作。物語はトリガーから約10年後の世界を舞台にします。驚くべきはその導入です。なんと謎の生命体スフィアにより地球が覆われ、人類第二の故郷となりつつあった火星と分断されてしまうのです。前作では人々の身につけているデバイスや火星の生活まで、あらゆる点が私たちの住む世界の技術水準を大きく上回っていました。防衛隊の戦闘機も遠隔操縦専用、ニューフロンティア時代と言うこともできるでしょう。しかし前作でそれほど全面に押し出された人類の発展を、デッカー1話で大きく覆すのです。スフィアが地球を覆ったことで星間通信も地球から出ることも不可能に。その上戦闘機の遠隔操縦といった進んだ技術は軒並みスフィアの影響で無力化され、防衛隊が使用する銃火器も大型化、実弾が主になります。トリガーから大きく変わった世界。空を見上げればいつもの青い空……と思いきや、スフィアの不気味な色が歪んだように混ざっています。ウルトラマンという作品にしては窮屈にさえ感じる舞台で、デッカーはどんな物語を紡ぐのでしょうか?

 

〈程遠い未来〉

本作中盤、アガムスという人物が現れます。アガムスは優れた科学力を持つバズド星出身で、スフィアと長きに渡る戦いを生き抜いてきました。そんなアガムス自身も優秀な科学者です。最大の発明品テラフェイザーは、なんとウルトラマンと同等の全長を誇る巨大ロボット。見上げるほど大きなロボットは、正に科学力の結晶と言えるでしょう。

しかしアガムスはテラフェイザーの砲口をウルトラマンデッカーへと向けます。テラフェイザーは地球を滅ぼすために生み出された兵器なのです。困惑する人類へアガムスは告げます。自分は未来からやってきた。故郷のバズド星は未来の地球人の手で滅ぼされたのだと。本作ではアガムスと同じタイミングで、もう1人の未来人が登場します。アガムスとは何やら大きな因縁があるようで、ウルトラマンとなってテラフェイザーと戦う場面も描かれました。アガムスと未来のウルトラマンの登場は、地球人が辿る明暗両方の「明日」を反映しているのです。

明日。主人公アスミ・カナタの由来にもなっている言葉です。カナタは自らその名の由来を告げていました。明日を見る、彼方まで。しかし彼方の明日では憎悪に取り憑かれたアガムスと戦い慣れしたウルトラマンが争っており、平穏からは程遠い世界が広がっているではありませんか。ここで未来を変えたとしても、復讐鬼アガムスと未来のウルトラマンが戦う世界への影響はありません。その力があるから戦い続けてきたカナタへ突きつけられた未来という現実。そして未来のウルトラマンは自身の世界へ帰る際、カナタへ「アガムスを救う」ことを託します。平穏から程遠い未来と、未来からやってきた敵。カナタが見るべき明日とは何なのでしょうか?

 

〈明日を見る。彼方まで!〉

本作はカナタの物語であると同時に、ウルトラマントリガーの後の時代を描いています。トリガーが物語に大きく関わるのは当然でしょう。トリガー=ケンゴはかつて闇の巨人と戦い地球を守ってきた英雄。その原動力に、世界中の皆を笑顔にしたいという目標がありました。デッカーでは復活したかつての敵カルミラさえ微笑ませ、「敵も救う」姿を披露。戦う理由も敵を救う方法も分からないカナタへどれほど大きく映ったでしょう。しかしケンゴのそれはケンゴだからこそ出来たことでもあります。カナタにはカナタ自身の戦う理由と、敵を救う方法があるはずです。

再び共闘することとなったカナタへ、ケンゴは戦う理由が見つかったのかと問います。カナタは様々な戦いを通して、今は守りたいものを全力で守ると答えます。ケンゴのように目標があるわけじゃない。代わりに、がむしゃらで良いから全力を尽くす。ウルトラマンとしてのカナタの答えは「今を全力で生きる」ことに繋がるのではないでしょうか。カナタにとってウルトラマンとは何かを守るための力です。ウルトラマンとして生きることと何かを守ることはイコールで繋がっているのです。守りたいものを全力で守るということは、即ち全力で生きることと言えるのではないでしょうか。自分のため、誰かのため、世界のために全力で生きる。どんな明日になるかは誰にも分かりませんが、精一杯生きるだけで可能性は無限に広がります。

アガムスは地球人が遠因で生涯のパートナーを失いました。以来「花……木々……空……風……雲……太陽……」とパートナーが憧れた美しい風景を口にするようになりました。過去に囚われ、パートナーを失い「守ること」そのものに意味を見出せなくなっていました。そんなアガムスのパートナーは、宇宙中の仲間たちと沢山の幸せを築くことを願っていました。過去に囚われ過去の自分への贖罪のために狂気へ手をかけたアガムス。しかしアガムスが見ていた過去、つまり生涯のパートナーは未来を見ていたのです。パートナーもその願いのために具体的にどのような行動を取ればいいかは分からなかったでしょう。しかしその願いと星間旅行の話を合わせれば、「全力を尽くす」であるはず。カナタとアガムスのパートナーも、未来を目指すために同じことをしていたのです。望んだ明日の彼方を見るために今を目いっぱい生きる。明日の彼方を見るのだから、例えありったけでも命は賭けない。その真っすぐな「全力さ」にアガムスは救われたでしょう。

闇も影も肯定することを描いたトリガー。その続編たるデッカーは、明日の彼方のために生きることを描きました。スフィアが地球を覆う理由も、物語としてはそんな彼方の明日=無限の可能性を狭める窮屈さと見ることができます。最終決戦では、そんな可能性を否定するスフィアへトリガーとデッカーが立ち向かいます。可能性を否定する者へ、トリガーとデッカー双方で描かれたテーマが合わさるのです。2つのテーマを1つにするならば、自分の強さも弱さも受け入れて真っ直ぐ生きる。そんな力強いメッセージとなるのでしょう。

『ウルトラマントリガー エピソードZ』感想

光と闇に新たな決着を付けたウルトラマントリガー。今回はその劇場版についてネタバレ有りで語ろうと思います。未見の方はご注意ください。
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〈イーヴィルトリガー〉

劇場版が製作されなかったウルトラマンZも大きく活躍する本作。その最大の見どころは、やはりイーヴィルトリガーの存在でしょう。イーヴィルトリガーは、3千万年前の超古代文明の生き残りであるザビルがトリガーの力を使い巨人となりました。ザビルは別宇宙からやってきた寄生生命体セレブロと協力し、地球の光となろうとするのです。

 

〈影の巨人〉

地球は人類の手で守らなければならない。いつまでもウルトラマンに頼ってはいけない。初代ウルトラマンの最終回で発されたメッセージと同様の言葉をザビルは使命としていました。それ自体は何ら間違っていません。しかしザビルは、トリガーの光を奪い力を手にしました。こうしてザビルは、ウルトラマントリガーの影、イーヴィルトリガーとなります。何故ザビルは光の戦士になれず、影の巨人となったのでしょうか? ザビルは自らが光になると宣言した後、正義の言葉を何度も放ちます。この姿に何処か見覚えのある方もいるでしょう。TV本編で、自らが光の意志であることを悟ったケンゴと同じなのです。ケンゴは別の次元からやってきたウルトラマンリブットの助言で自分を取り戻しましたが、ザビルにそれはありません。3千万年分の苦悩がザビルを突き動かしていました。何故イーヴィルトリガーは闇の巨人と言われないのかも自明でしょう。光を見続け本来見つめるべきものを見失ってしまった、ケンゴのあり得た姿なのです。

 

〈強さと弱さ〉

劇中ではウルトラマントリガー以外にも、ウルトラマンZが登場しました。因縁あるセレブロを追いかけてトリガーのいる地球までやって来たという筋書きです。そんなZは、師匠と慕うウルトラマンゼロへ「3分の1人前」と評されているウルトラマンです。熱血漢ながら同じく成長途中のハルキと一心同体になり、地球の平和を守りました。Zは未熟さを押し出したウルトラマンであり、ハルキと2人でようやく半人前の戦士なのです。本作でもセレブロの厄介な洗脳に苦戦し、まだ成長途中であることが伺えます。

闇も光も自分自身と受け入れたケンゴ。自分の未熟さを認め、なおも突っ走るZ。イーヴィルトリガーはそれらを否定します。地球は人類の手で守らなければならない。なんと完璧な答えでしょう。しかしそれを掲げるイーヴィルトリガー(=ザビル)が歪なのは、姿や戦闘方法が表す通りです。完璧を掲げているはずのザビルが歪で、不完全なトリガーやZにはその歪さが感じられません。ここにイーヴィルトリガーが影たるもう1つの理由があります。

Zとトリガーはまだまだ不完全です。完璧な戦士とは言い難い部分が見受けられます。ですが2人はそれを認め、受け入れています。自分の中にも闇があることを受け入れたケンゴと、未熟さを受け入れて他者の力を借りることも厭わないZ。トリガーに固執しその光を狙ったザビルですが、ザビルは光に完璧さを求めていたように思えます。あの闇の巨人をいとも簡単に封印した力を。地球は人類の手で守らなくてはならない。しかしその実、ザビルが求めていたのはトリガーの光のみ。それ以外を受け入れず、真の姿を見てはいなかったのです。光の意志であり人間。そんなケンゴをザビルは拒絶し敵対します。完璧以外を受け入れられない弱さ、自分の弱さを受け入れる強さ。今作ではその対立を描いていたのではないでしょうか。

 

ウルトラマンとは?〉

ウルトラマンは時に神秘性という言葉で語られることがあります。彼方遠くからやってきた光の戦士。まるで神のようにさえ見える巨人は、全てを語らないことで神秘のベールを纏うようになりました。トリガーもまた、神秘性のあるウルトラマンと言えるでしょう。3千万年前の超古代文明から蘇った戦士であり、その中にある光の意志はケンゴから生まれた。残された余白が神秘性を演出し、神々しささえ感じられます。眩い光を放つ神秘の巨人に魅せられた方が数多くいるのは、もはや言うまでもないでしょう。

ザビルが見た「光の巨人」とは、正しくこのことを指しているのではないでしょうか? 突如現れた光の巨人が、憎き闇の巨人を封印する。神秘性を見出すなと言う方が無理な話です。ザビルはその力を人類の手で掴み、平和を守るべきだと言いました。しかし「ウルトラマン」は決して神秘性が全てではありません。トリガーやZ、そしてトリガーダークを見て神秘性のみを語る人は多くないでしょう。ウルトラマンを構成する要素に神秘性は必須ではありません。ウルトラマンさえ心に闇があり、弱さがある。初代ウルトラマンは、当時ルーキーだったメビウスへある言葉を送っています。「我々ウルトラマンは決して神ではない」と。心に闇があり、弱ささえある存在。神秘のベールに隠されたいたのは、私達と大きく変わらない姿だったのです。

ならばウルトラマンと私達の違いはなんでしょうか? 本作を見た方ならばきっとわかるでしょう。

『ウルトラマントリガー』感想

ウルトラマンが放送されてから55年、そしてティガから25年の時を経て本作は製作されました。超古代文明や闇の巨人などのティガでも描かれた要素を拾いつつ、リメイクやリブートではない新たなストーリーを確立させた本作。今回はそんなウルトラマントリガーをネタバレ有りで語りたいと思います。未見の方はご注意ください。
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〈2つの巨人〉

超古代文明から蘇った光の巨人ウルトラマントリガーと、同じく蘇った3人の闇の巨人の戦いが本作の中心となりました。光と闇の衝突。これまでのウルトラマンが何度も直面したテーマであり、原典のティガでも描かれていました。 ティガFINAL ODYSSEYでは闇の三巨人との戦いがメイン。トリガーも同様に闇の三巨人とエタニティコアを巡る戦いを中心にストーリーが展開されます。エタニティコアは宇宙開闢と同等の力を持つ神秘のエネルギーです。もう1度ビッグバンを起こし宇宙を作り変えることさえ可能なエネルギー。その独占を目論む闇の巨人の陰謀に、トリガーと主人公ケンゴが挑みます。

 

〈闇も光も〉

光と闇の対決。これまで何度も描かれた戦いを改めて描く必要はあるのでしょうか? そこでまず描かれたのが「悪の多様性」でした。自己中心的な愛に溺れるカルミラ、欲望のままに行動するのダーゴン、他者を見下すヒュドラム。三者三様の「悪の姿」にトリガーが挑む構図です。ティガFINAL ODYSSEYをなぞりつつ闇の巨人達へ強烈な個性を付与。さらにトリガー自身もまた、かつては闇の巨人であったことが中盤になって明かされます。これもティガFINAL ODYSSEYをなぞる展開に思えますが、ティガと違いトリガーは最初から闇の巨人でした。そして主人公であるケンゴをきっかけに光の巨人となったのです。

闇の巨人がケンゴの魂を持って光となる。ではウルトラマントリガーとは光の巨人なのでしょうか? それとも闇の巨人なのでしょうか? 作中ではこの問いに別の切り口から2度応えていました。ケンゴの魂がトリガーを光たらしめたならば、ケンゴ=光の意志と捉えることができます。実際ケンゴはそのことで使命感に囚われ、本来の自分を見失いそうになるほどでした。そんなケンゴもまた、どんな人にも光の心があるという信条から、闇の巨人トリガーへ光あるウルトラマントリガーを語りました。トリガーダークと呼ばれた闇の巨人トリガーと、その光となりトリガーをウルトラマンにしたケンゴ。3千万年前から約束された奇跡の出会いは、光と闇の二極化をより顕著にしました。

多くの方が人生の長短に関わらず、「闇」を経験したことでしょう。他者を見下し、欲のままに行動し、自己中心的な好悪の感情を振り撒いた経験があるでしょう。やや仰々しい言葉を使いましたが、どれもミクロな目線で見れば「あるある」なのです。一方で、他者を尊敬し理性的な行動をし、また他人を慈しむ心も同じように持ち合わせているはずです。多くの方が生きている以上、光と闇の両面を持ち合わせているのです。それは当然、ケンゴもトリガーも同様です。しかしケンゴは光の意志としての自分しか見つめられず、トリガーもまたウルトラマントリガーとして闇の部分を消してしまいました。光が闇に勝った。かつて何度も描かれた「熱いシーン」も、「闇の多様性」を描いた本作では疑問符を呈する構図となっていました。

闇の巨人がケンゴの魂で光となる。ならばトリガーは闇と光、どちらの巨人と言えるのでしょうか? その疑問に、ケンゴとトリガーは同じ答えを提示しました。ケンゴには光そのものと言える魂が宿っています。しかしそれだけがマナカ・ケンゴではありません。ケンゴは光である前に人間、私達と同じ存在なのです。そしてトリガーも、「ウルトラマンとして」再び闇の力を使います。闇と光の力を併せ持ち、トリガーは真の姿を解き放つのです。ウルトラマンオーブ以来、闇の力も扱うウルトラマンが現れるようになりました。本作はその到達点として「闇も光も自分自身」という結論を用意していたのです。

 

〈「トリガー」の意味〉

闇の三巨人にはそれぞれティガFINAL ODYSSEYの三巨人から由来する名が名付けられています。トリガーも同様にティガを彷彿とさせる語感です。しかし「トリガー」という言葉を聞いて、ティガっぽさよりも「引き金」という言葉を思い浮かべる方が多いでしょう。銃と一体化した変身アイテムを由来としているのでしょうが、引き金はきっかけや発端の例えとして用いられることもあります。作中では引き金という言葉が頻出する事はありませんでしたが、同じくきっかけや発端を彷彿とさせるものが作中で登場しています。第1話以来登場している、ケンゴが新たに生み出した新種の花ルルイエです。ルルイエはどれほど水を与えても花を咲かせることなく、蕾ばかりを見せていました。蕾が花を咲かせる。何かがきっかけで成功することの例えとして用いられるでしょう。ケンゴは「みんなを笑顔にする」ことを原動力に戦っていました。ケンゴは皆の笑顔という花を咲かせるきっかけ、引き金になろうとしていたのです。最終回、ケンゴの撒いた種はどうなったのか? 是非見届けてみてください。

『ウルトラマンアーク』感想

前作(ウルトラマンブレーザー)では、斬新なウルトラマンの物語に胸を躍らせた方も多かったでしょう。では次なる戦士、ウルトラマンアークはどんな活躍を見せてくれるのでしょうか? 想像力をキーワードに空へ羽ばたくウルトラマンに今度も胸を躍らせましょう。なお、今回もネタバレ有りで語っています。未見の方はご注意ください。
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〈無限の可能性〉

想像力は無限の可能性を秘めた種。今までのウルトラマンも夢や未来をテーマにした作品は多いですが、これほど想像力に着目した作品はないでしょう。縦軸がほとんど存在しないストーリーで、それこそ各回で監督の想像力が解き放たれた自由さが「アークらしさ」を際立たせていたように思います。敢えて縦軸を挙げるならそれこそ「想像力」というキーワードでしょう。前半パートではユウマに対比して理屈っぽいシュウが置かれていました。シュウはユウマの豊かな想像力を羨みますが、飛躍した想像を補うには欠かせない役割でした。一方後半パートでは、「想像力」を深掘りするような物語が多かったように思います。怪獣をなくすためにウルトラマンアークを消そうとする存在、ユウマに想像を強制させるスイード。想像とは自由でなければなりません。そこに制限を加えたり、無理やり夢見させては力とはなりません。想像力は、自由な発想を持つからこそ得られる無限の可能性なのです。

 

〈走れ、ユウマ!〉

そしてもう1つのキーワードが、「走れ、ユウマ」でしょう。怪獣被害に巻き込まれ死を覚悟した父がユウマへ放った最後の一言です。ユウマは父の言葉を受けて逃げたことをずっと悔やんでいました。ユウマにとって「走れ」とは「逃げろ」だったのです。そこで思い出したいのが「想像力」という言葉。あの時父が言った言葉の意味をどう捉えるかもまた想像力が試されるところです。これまでユウマは怪獣の声を聞き、星人の仕草を見て様々な想像を張り巡らせました。強いて共通点を挙げるなら、それは「ポジティブなもの」でしょう。あの時父が言った言葉の本当の意味は何だったのでしょう? ユウマにとってあの出来事はトラウマで、当初は怪獣を見て過呼吸を起こすほどでした。ユウマにとってあの日は「両親を見捨て逃げ出した」のですから。ですがそんなトラウマを植え付けたくて父は走れと言ってはいないはず。ユウマが宇宙へと旅立ったのは、そんな父の言葉をポジティブに捉えるようになったからでしょう。想像力は無限大です。それを表すかのように本作は遊び心満載でした。しかし想像力の力はそれだけでないことが、「走れ、ユウマ」という言葉でわかるでしょう。想像力は過去のトラウマも未来への道も飛び越えられる。それがウルトラマンアークなのでしょう。

 

〈架け橋〉

無限大の想像力は無限の可能性を秘めている。ウルトラマンアークは誰もが持つ際限ない力を描いていました。ならば「アーク」とはどういう意味でしょうか? 最後にもう1度、この駄文中に想像力を解き放とうと思います。

ウルトラマンアークは作中でシュウが名付けたものです。円弧を描いて飛び去る様を見て、アーチを由来した言葉をつけたのでしょう。また本作のキャッチコピーを思えばアークとは夢の架け橋となります。ウルトラマンアークは作中を通して夢の架け橋という役割を背負っていたのです。確かにウルトラマンアークはユウマの想像(=夢)と現実を繋いだ架け橋でした。しかしそれだけが結論でしょうか? 本作の主人公はユウマですが、想像力を語りかける作品が狭い範囲で終始するはずがありません。

ユウマとアークは何度も想像力を働かせて問題の解決を試みました。宇宙ロボットの些細な行動から和解の道を探ったり、怪獣の唸り声を聞いて秘められた感情を想像するなど、ユウマの想像力は現実に徹していたシュウには突飛とさえ思えるほどでした。一方アークも想像力を解き放つことでオニキスの力をギャラクシーアーマーへと変換させます。2人は想像力で無限の未来を掴んだのです。そして最後、ユウマは宇宙へと旅立ちました。シュウもSKIPから防衛隊に戻り、SKIPも作中ほど賑やかな場ではなくなったでしょう。ユウマとアークほ想像力で未来を掴みました。2人の活躍は未来への架け橋となったのです。そして2人の活躍の日々は、SKIPが賑やかに活動していた時期でもあります。シュウはアークとの日々が正に夢のような時間だったこもでしょう。シュウにとってアークとは夢の架け橋なのです。作中の人物、世界とアークを繋げるものは多くあります。それは1つ1つの架け橋が「ウルトラマンアーク」かもしれません。

 

『ヨルムンガンド』感想

人類が生まれた時から続けられてきた最も愚かな行為が戦争でしょう。戦争をなくしたいと願う人々は多いのに、何故戦争はやめられないのでしょうか。どうしたら戦争はなくなるのでしょうか。そんな人類が持つ永遠の疑問に一石を投じたのが本作、ヨルムンガンドです。この狂った世界で本作はどんな結論を出したのでしょうか?

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〈あらすじ〉

両親を殺した武器を憎みながらも、武器商人ココの私設軍隊に加わることとなった少年ヨナ。ココはある国の軍と武器の取引をしていたが、それを防ごうとする勢力に狙われる。しかし、ココに同行していたヨナが、自らが憎むその武器でそのピンチを乗り切ろうと応戦して…

(SHOGAKUKAN COMICより抜粋)

 

〈世界を憎む〉

ヨナは本作の主人公の1人。両親が戦争で殺されて以来武器を憎む少年兵です。弾雨の世界を生き抜くためにはヨナ自身も兵士となるしかありませんでした。そんなヨナを護衛として雇ったのが、もう1人の主人公であるココです。ヨナと同じく武器を憎み戦争を憎むココは、親が経営する会社で武器商人をしています。武器商人ですから、商売相手は国家やテロリスト、民兵など様々。危険な目に遭うことも少なくありません。また武器を欲する全ての人が商売相手となりうるため、陸海空あらゆる手段で世界中を巡ります。硝煙塗れの空しか知らないヨナを、ココが様々な世界へ連れ出すのが本作の大まかなストーリーです。

 

〈世界を旅する意味〉

何故ココはヨナを世界へ連れ出すのでしょうか? ココは既に最高級の戦闘技術を持ったボディーガードを多く雇っています。ヨナも優秀な少年兵ですが、子どもであることに変わりはありません。わざわざ増員する必要もないでしょう。それでもココがヨナを雇ったのは同じく武器を憎み平和を望んでいたからでした。

ココと共にして以来、ヨナの瞳に映るものは多くありました。煌びやかな空と海、どこまでも続く砂漠、戦争を知らないネオンの光、誰かが望んだ正義と悪、権謀術数を張り巡らせる大人たち。ヨナは世界中で様々なものを見てきました。ココのチームと家族のような絆を結びました。そんな仲間の命を人と弾丸が奪う様も目にしました。私たちが死ぬまでに見る以上の景色を体感したヨナへ、ココは問います。この世界は好きか? と。その問いはまるで本作が読者へ投げかける問題提起のようでした。

 

〈平和の代償〉

武器を憎むココは、やがていつまでも戦争を止めない世界さえ憎むようになりました。そんなココが世界から平和を取り戻すための計画が「ヨルムンガンド」です。大きな犠牲を伴う強制的な平和措置です。ヨルムンガンドを実行すると、それだけで70万人の犠牲者が出ます。火薬と硝煙に塗れた世界で、ミサイルと弾丸が飛び交う世界で、70万人という数字はどれほど大きなものでしょうか? 

もし次に世界大戦が起こるなら確実に70万人以上の犠牲が出るでしょう。仮に世界大戦が起こらなかったとしてもどこかで戦争がある限り多くの人々が亡くなります。今後戦争被害がなくなる代償が70万人で足りるなら、むしろ安い犠牲で済んでいるのではないか? 平和のために必要な70万人の犠牲。多くの人は直感的に反発するでしょう。様々な反論も思いつくでしょう。恐らくそれらは正論です。何も間違ってはいないはずです。ココの計画は狂っている。イカれている。それは間違いないでしょう。しかしココもヨナも世界中を旅して同じ結論に達していました。この世界は狂っている。イカれている。そんな世界へ正攻法が通用しないのはココもヨナも体感したことです。戦争を止めるなら大勢の人が死んでもやるしかない。ココの結論は多くの世界を見てきたからこそのものでした。

現実の問題を理想論で解決することは出来ない。どこかでそう折り合いをつけている方は少なくないでしょう。ベトナム戦争時には反戦の意を込めて自ら身を焼いた僧侶がいました。そんなメッセージが砕かれる様も世界は見つめていました。宗教や民族、為政者の強欲さで今なお戦争は止まりません。ならば大きな犠牲を払ってでも、それが世界最後の犠牲なら小さく済んだと言えるのでは? 正しさが砕かれ続ける世界で正しさに拘る意味は? 本作が提起した愚問に、突きつけるべき答えは何でしょうか?

『大決戦! 超ウルトラ8兄弟』感想

子どもの頃、ウルトラマンに憧れた方は多いでしょう。かくいう私もその1人。雲ばかりの空を見上げ、頭の中で光の巨人がそびえ立つ様を描いていました。今回はそんな思い出を蘇らせた映画、大決戦! 超ウルトラ8兄弟をネタバレ有りで語りたいと思います。
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〈この世界の続き〉

ウルトラマン第1話を食い入るように見る3人の子ども達から本作はスタートします。やがて3人はそれぞれの夢を1番星へ願い、多くの思い出と共に成長していきました。姿形は違えど、本作を鑑賞した方なら誰しも覚えのある光景でしょう。童話のような語りも相まって、視聴者を子どもの世界へと誘います。しかしそんな私達を現実に引き戻すかのように、冒頭の子ども達は大人へと成長しました。この世界にウルトラマンはいない。語りにもあるように、本作の世界は私達の世界に近いようです。そんな世界で生きる主人公のダイゴは市の観光課に勤めています。日々の業務に追われる様に「空想」を挟み込む余地はありません。ウルトラマンメビウスが現れてもどこか現実感がありませんし、そもそも光の勇者という言葉が突飛で浮いている様に見えます。そんな現実世界と地続きの世界でダイゴ、アスカ、我夢はウルトラマンへと変身します。果たしてそれは単なる奇跡でしょうか?

 

〈奇跡の意味〉

私達は年を取るごとに現実を知るようになります。夢を見ることをやめ、空想よりも現実を生きるようになるのです。宇宙船に乗ってウルトラマンに会いに行くという夢を持っていたダイゴは、市の観光課として奔走していました。同じく壮大な夢を持っていたアスカと我夢も既に夢を諦めた様子。子どもの頃はウルトラマンになることさえ夢想した2人は、自分たちがウルトラマンだと言われても「あり得ない」と笑ってしまいます。それはきっと、大人の正しい反応なのでしょう。誰もが同じことを言われても似たような反応をするはずです。では何故3人は、最後には自分たちがウルトラマンであると信じられたのでしょうか? 

平行世界の自分がウルトラマンだと知りその記憶を受け継いだ3人。それは恐らくほんのきっかけに過ぎなかったでしょう。記憶を受け継いだことで3人は確信したのです。自分がウルトラマンであることを。信じることができたから3人は光の勇者へと変身できたのです。3人の変身は単なる奇跡や偶然ではありません。記憶を受け継いだことで、諦めていた夢を信じることができたからです。ウルトラマンになるという突飛な空想を信じることができたからです。

 

〈子どもの頃の夢〉

皆さんは子どもの頃の夢を覚えていますか? その夢は今でも叶うと信じていますか? 努力や運だけでは手の届かないものもあるでしょう。それでも、まずは自分の夢を信じてみる。その1步を踏み出すことが重要なのでしょう。ダイゴ、アスカ、我夢の3人は戦いの後、1番星へ願った夢を叶えるために動き出します。そして最後にはウルトラの星を目指して宇宙船が出港する場面で閉幕となりました。

本作でダイゴは3つの姿で描かれています。即ち子どもの頃のダイゴ、青年になったダイゴ、そしてラストでは子どもに恵まれ親となったダイゴの3つです。それぞれの姿は、公開当時メビウス、ティガ、ウルトラ4兄弟を視聴していた人の姿とそっくり重なるでしょう。ウルトラマンは度々未来への姿勢をメッセージにすることがあります。ところが本作はノスタルジックな風景から始まり、観客の過去を思い出させていました。本作はウルトラマンを見ていた当時の全ての世代へ問いかけているのです。私も倣って皆さんに問いかけたいと思います。子どもの頃の夢、覚えていますか?